パンキッシュ☆

パンキッシュ☆

職場のブスがビロビロとパンティ丸出しで、まるで蝶のように右へ左へとオフィスを舞う姿を眺め、言葉とはなんと重くて雄大なものだろうと物思いに耽るのだった。

僕らは、母国語つまり日本語については勉強しない。もちろん勉強してきた記憶もない。それは小中高と国語の勉強をしたり、文学を専攻したりといった学問としての国語はあるかもしれないけど、日常会話において国語の勉強を意識しないはずだ。

例えば、辞書を引く、現代ならインターネットでその意味を調べる、恥を忍んでその意味を尋ねてみる、そういったことを日常会話レベルの日本語で行わない。

確かに、少しインテリジェンスな同僚が、まあこいつが女性の誕生日に生まれた年のワインを贈りかねないくらいの鼻持ちならないヤツなのだけど、そいつと会話していて、

「まさに天佑神助だよね」

なんて意味不明な言葉を用いてきた時、その場はちょっと引きつった笑顔で

「ははは、そうだよね、天佑神助としか思えない!」

などと引きつりながら答えるのだけど、後になって必死で辞書を引く、なるほど、「天佑神助」は天の助けとかそういう意味か、と納得する。次からはしたり顔で使ってやるぞと決意する。そういう時くらいしか日本語を調べない。

では、これが「雨」という言葉だったらどうだろうか。とてもじゃないが、「雨」を一生懸命辞書で調べる日本人はほとんどいないだろう。では、学校で習ったのだろうか。それもない。空から降ってくる水滴は雨と言います、などと概念を習った記憶はないはずだ。そりゃあ、低学年の時に漢字を習うことはあるかもしれないが、基本的に「雨」そのものを誰かに習うことはないと思う。

では、なぜ僕らはあの水滴が「雨」であると知っているのだろうか。よくよく考えてみるとそれは偉大なる過去の積み重ねであることに気がつくはずだ。

いつ頃かは分からない。ハッキリとした日時が分かるわけでもない。それでも幼きある日、周りで誰かが会話したかもしれない。お母さんやお父さんが、空から落ちてくる水滴を眺めて「雨が降ってきた」と言ったかも知れない。あるいは、絵本やなにかで、「雨」と表現していたかもしれない。

成長していく過程で僕らはあの水滴が「雨」であると自然に知るだろう。そして、体育祭や遠足が「雨」で中止になるたび、遊園地に行く予定がダメになるたびに雨に対する認識があまり良くないもの変わり行く。

ドラマを見ると、切ない場面に雨を降らせる演出が続く。大雨の中で泣く男女、多用される陳腐な表現、それを見て「雨」に対する認識が次第に叙情的なものへと移り変わる。こうやって沢山の要素が絡み合い、「雨」という概念どころかイメージまでもが形成されていく。

では、あなたが触れ合ってきた「雨」の要素は誰が作り出したものなのか。あなたの周りの人間も、雨に関する表現をしている全ての人も、同じように誰かからイメージという要素を受け渡されている。遡っていくたびにそれはどんどんと過去の時代になっていくはずだ。

「春雨の やまず降る降る我が恋ふる 人の目すらを相見せなくに」

万葉集には上のような歌が詠まれている。春の雨が止まずに降り続いている、私の恋しい人に会わせないようにしているかのように、という意味だ。しんしんと降り続ける雨を眺めながら恋しい人を思い浮かべる姿が目に浮かぶ。

7世紀という古い万葉集の時代から雨に対する認識はそんなに違わない。少し切なくて叙情的、おセンチな気分にさせてくれる。そんなものだ。今の世も古き時代もそんなに変わらない、そのスケールの大きさに驚くばかりだ。

「雨」という単語一つにしても、別に誰かが後世に残そうとしているわけではない。けれども、その概念からイメージまでもが自然と受け渡されていく。連綿と受け渡されていくその言葉は蓄積されていき、今、この自分の中で一つの「雨」として居座っている。その偉大さや巨大さには驚嘆するばかりだ。

そして、それは「雨」という単語だけではない。日常使う全ての単語が、過去からの産物だ。連綿と受け渡されてきた概念とイメージの集合体、こうして僕らの言葉は成り立っている。そう考えるとなんと重く、なんと雄大なことかと気が遠くなる。

さて、話を戻して、我が職場、目の前におわすのは職場一のブス、というかもしかしたら東洋くらいは取れるかもしれないレベルのブス、それがパンティ丸出しで闊歩している。そんな短いスカートはいちゃったら丸見えだろうに、あろうことか彼女は少し満足気な表情で笑っていた。

同僚どもが視線を逸らし、おいおい勘弁してくれよといったヨーロッパサッカー並みのアイコンタクトが飛びかう。交錯する視線をかいくぐり、それでもブスはパンティ丸出しで花鳥風月と言わん勢いで舞っていた。

「あれはパンティなんかじゃない!」

その光景を眺め、僕は深い憤りに身を委ねていた。もう、天使なんかじゃないって勢いで言ってた。いま目の前にベロベロと舞っているものは絶対にパンティであってはならない。

僕は誰かから「パンティ」という概念を教わったことはない。「これはパンティです」とかセクシャルな女教師が教えてくれる授業があるなら是非とも受けたいのだけど、残念ながらない。

そう、パンティだって「雨」同様、これまでの人生の中で無意識に誰かから受け渡されてきたはずだ。その概念とイメージ、連綿と続く歴史の重みと共に幾多の場面で触れ合い、あるイメージが形成されていったはずだ。

高校の時、クラスの女子のスカートがめくれて水色のパンティが見えた。まるで季節ごとに行われる成年男子の勇気を試す祭、この丸太を手にしたものが今年一番の福男として崇められる、そんな祭りのような勢いで喜ぶ僕たち童貞男子。

小学生の時、修学旅行で行った先の遊園地でゲームセンターの野球拳に没頭していた僕。なけなしの小遣いから数百円使ってクリアすると、器械の下からゴロンとカプセル入りのパンティが出てきた。その瞬間、僕は命に変えてでも守るべき宝物を手に入れた。

社会人になり、1階のセクシーなお姉さんが窓際にヒョウ柄のパンティを干していた。ヒョウ柄なんて只者じゃない。寒そうに北風に揺られるパンティを見て、きっといあのヒョウはサバンナを駆け巡りたいに違いない、そう確信するのだった。

中学校の頃、身体検査の時にガキ大将の男の子が間違ってお母さんのパンティをはいてきていた。開き直ったガキ大将は、お母さんのパンティをはいて保健室で仁王立ち。前部の赤いリボンとお尻のラインの所にあしらわれたフリルが妙に印象的で、死ぬほど面白かった。

最後のはちょっと違うけど、どんなシーンにおいてもパンティとは喜ばしいもの、僕のピンク色の脳髄を刺激してくれるものだった。そう、受け継がれた歴史は間違いなくそれだった。

しかしながら、眼前にチロチロとみえるソレは、掛け値なしにパンティと思えるものの、全く喜ばしくない。脳髄を刺激しない。むしろ不愉快極まりないと述べても差し支えなかった。

「これがパンティであってはならない」

膝から下がガクガクと震える。言葉にならない言葉をグッと飲み込み、僕の胃袋を焦がす。それは歴史の否定に他ならなかった。受け継がれてきた歴史の否定、それは存在の否定だった。

「雨」の話に戻そう。僕らにとって「雨」とは、少し切なくてブルーになってしまうおセンチなものだ。それは、無意識に受け継がれてきたイメージと概念のバトンリレーの産物であることは既に述べた。しかしながら、その概念が根本的に違っていたとしたらどうだろうか。

ヨーロッパのとある農村では、時折不可思議な現象が起こることがある。急に空が曇ったかと思うと、雨と共に鮮魚が大量に降り注いでくるのだ。中にはピチピチと跳ねているものまであるらしい。

これは一説によると竜巻によって巻き上げられた海洋の魚が雨と共に降り注ぐと言われているが、その原因は完全には解明されていない。ここで注目したいのは「雨と共に魚が降ってくる」という点だ。

貧しい農村だったその村は、降雨ならぬ降魚に沸いた。これはいいと家に持ち帰り、煮魚にして食べる者もいたそうだ。そしてこの事実はその村にいた人間の「雨」に対する認識を変えてしまう。少なくとも、「煮魚が食べられる」というイメージが含まれてしまうはずだ。

「あ、雨だね」

「やだなあ、傘持ってこなかったよ」

「今夜は味噌煮だね!魚大好き!」

今日の日本においてこのような会話を交わそうものなら、即、鉄格子のついた病院に入れられるに違いない。

目の前にあるブスのパンティはまさに雨に混じった鮮魚そのものだ。完全なるイレギュラー、しかし、そのイメージすらも次の世代に受け継いでいかなければならない。これからきっと、僕はどこかで無意識のうちにパンティとは喜ばしくないもの、というイメージを誰かに与えてしまう。そしてそれが受け継がれ、いつの世か、誰もパンティを見たがらない、女たちも頑なに見せようとしない暗黒の世界が訪れるかもしれない。

冗談じゃない。

もうっとこう、パンティってのは喜ばしくて尊いものに決まってる。いがみ合う二人の青年がパンティを介して分かり合うとか、病気の少年がパンティ見せてくれたら僕、手術受けるよとか、そういう素晴らしいものでなくてはならない。こんなブスのものがパンティであっていいはずがない、こんなのちょっと汚い布だ。それ以下だ。

ということで、僕は決意したのです。今やネガティブなイメージが刷り込まれてしまったパンティのイメージ、それはもう僕の中では仕方がない。けれども、最低限、周りの人間に伝えてはいけないんじゃないか。このネガティブイメージが連綿と続くバトンリレーに組み込まれ負のスパイラルに陥ることだけは避けなければならない。

僕はもう、これから「パンティ」と発言しない。そうすることで周りにパンティのイメージを伝えない。それどころか、「パ」とすら発言しない。イメージってのは恐ろしいもので、たった一文字でも伝わりかねない、だからもう「パ」とも「パンティ」とも口にしないようにしよう、掛け替えのないパンティを守るため、そう決意したのでした。

さて、地獄のパンティオフィスをかいくぐり、誰もが少し胃もたれをしながら仕事終えて帰路へと着く。どこからともなく夕方の匂いがしてきて、落ち行く夕陽を眺めながら僕も帰り支度を整える。そこで少し仕事が残っていたのを思い出し、不本意ながら残業。

さあ、今日は家に帰ったら高校時代のあのパンティでオナニーしちゃうぞ!

オナニーの予定が定まっていると心なしかウキウキしてくるから不思議だ。ハンドルを握り、我がオナニー御殿へとアクセルを踏み込んだ時にはすっかり夜になっていた。

15分くらいウキウキ気分で走った時だろうか、右前方から不可解な音が聞こえた。

パンッ!

けたたましい音と同時にベロベロベロと何かがめくれる音がする。瞬時にハンドルを取られ、真っ直ぐ走るのも不可能、容赦なく車が蛇行する。

パンクだ!

危うく叫びそうになるが、そういえばパンティの悪いイメージを伝えないために「パ」は口にしない決意だった。

「タイヤの空気が何らかの理由で突如抜けてしまってベロベロになって走行不能だ!」

とっさの叫びであるはずなのに妙に長い。

急いで車を停め、見てみるとタイヤが完全にフニャフニャになってて完全なるパンク。

「あーあ、タイヤの空気が何らかの理由で突如抜けてしまってベロベロになって走行不能だな」

一人でガックリくる。

ここでうなだれていても始まらないので、ゴミ箱と化していたトランクを開けて工具とスペアタイヤを取り出す。手際良くジャッキアップして真っ暗闇の中、タイヤ交換を試みる。

「なんや、どうしたんや?」

そこに物珍しそうにワンカップを手にしたオッサンが。

「いやー、ちょっとタイヤの空気が何らかの理由で突如抜けてしまってベロベロになって走行不能になったんですよ」

「なんやパンクか」

「ええ」

真っ黒になりながら作業していると、そのオヤジはタイヤ交換を魚に酒を飲み始めた。一瞬でも手伝ってくれると期待した僕がバカだった。

「お、パトカーだ、手伝ってもらったらどうだ?俺が行ってきてやろうか?」

「いやあ、警察車両は助けてくれないでしょ、大丈夫ですよ、そろそろできます」

という会話をしつつ、

「ほれ!そこだ!」

などとオッサンの訳の分からない威勢の良い掛け声を尻目に黙々とタイヤ交換をする。やっとこさ作業を終えた時はもう1時間くらい経過していました。

「気をつけて帰れよ!」

酔いどれオッサンの言葉を聞きつつスペアタイヤを装備した僕の愛車が我が家に向けて走り出す。

パンッ!

またパンク。

「うそ!またタイヤの空気が何らかの理由で突如抜けてしまってベロベロになって走行不能になった!」

今度は右後方のタイヤが先ほど以上のパンク。ゴムが張り裂けて、破れたコンドームみたいになってた。短い時間で立て続けのパンク、どっかの忍者がまきびしでも撒いたのか思って探したのだけど、そうではない。

後から分かったのだけど、どうも4本のタイヤ全部が極限状態にまで傷んでおり、いつどこがパンクしてもおかしくなかった様子。もうね脱力しましたよ。汗まみれ泥まみれになってタイヤ交換した次の瞬間にまたパンクですからね。

「どうすんだよー」

とにかく、もうスペアタイヤはありませんので、近くのスタンドまでガコガコとなりながら運転していくことに。まるでロデオみたいになりながら1キロ先のセルフスタンドへ。

もう夜中で明らかに人がいないんですけど、セルフスタンドってのは消防法の観点か何かで絶対に店員がいて監視カメラで見ているはず。スタンドの中央でパントマイムみたいになりながらアッピールしていると、奥のほうから明らかに「客が来ないので寝てました」みたいな店員が頭に寝ぐせバリバリ伝説でやってくるじゃないですか。

「すいません、なんか2連続でタイヤの空気が何らかの理由で突如抜けてしまってベロベロになって走行不能になったんですけど」

「はあ、パンクっすか」

「ええ、そうとも言います」

「ちょっと、朝になるまでタイヤ交換やってないんでー、明日の朝またきてくれますかー」

スタンドに車停めたままでいいっていうんでそのままにして徒歩で職場へと舞い戻る僕。こうなったら家に帰るのは諦めて、職場で夜を明かすしかない。トボトボと歩いて帰りましたよ。

で、40分くらい歩いてやっと戻ってきたんですけど、もう足は痛いわ疲れて眠いわで最悪でしてね、見ると何人か残業してみるみたいで職場の明かりはポツポツと灯ってるんですよ。でもね、職場の門が強固に閉まっていてなんびとたりとも外敵の侵入を許さないんですよ。

いつもだったら鍵使って門を開けて入るんですけど、あいにくその鍵を車に置いてきてしまうというミステイク。どうしたもんかとしばらく考えたんですけど、もうこりゃ仕方がない、この塀をよじのぼっちまおう、と少しおかしなチョイスをしてしまったんです。

正面の門を堂々と乗り越えたら通報されかねませんので、人通りの少ない通りのほうに回りこみましてね、ユサユサと塀をよじ登ったんですよ。2メートルくらいはあろうかという結構な塀なんですけど、なんとか乗り越えて「やあっ!」とジャンプしたんです。その瞬間ですよ。

グキッ!

地面に着地した瞬間にですね、グキッと腰に激痛が走ったんですよ。バンッと地面に両の足をつけた瞬間に、その振動が腰に伝わって何かが外れたんですよ。

ぎっくり腰というんでしょうか、腰が抜けたというんでしょうか、良く分からないんですけど、経験したことない激痛が腰を襲ったんですよ。

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおお!」

真夜中の職場、裏側の駐車場脇の雑木林、落ち葉にまみれてイモ虫みたいになる30歳という素敵な光景が。立ち上がろうにも全く立ち上がれず、ただただ身悶えてました。

まずい、このままでは死ぬかもしれない。

こんなところでイモ虫になったことなどないですからどうなるか分かりませんけど、色々と危機なのは分かります。何とかして助けを呼ばないと、そうだ携帯だ、と思うんですけど、見事に充電が切れてるというデスマーチ。

そうこうしてるうちにしんしんと雨が降ってきましてね、多分、通り雨なんでしょうけど絶妙に死にそうな気配が漂ってくるんですよ。雨=死という新たなイメージが付け足され、もういよいよダメか!と思った時その時、予想だにしなかった事態が。

「なにやってんですか?」

目の前にパンティがあるじゃないですか。もうイモ虫みたいな体勢になってるんで下から丸見えなんですけど、確かにパンティが、それもあのブスノパンティがあるのです。

なんでも、死ぬほど残業をしていた彼女、やっと仕事を片付けて帰ろうと駐車場に向かった。すると、脇の茂みで何かが蠢いている。不審に思った彼女は怖いと思いつつも恐る恐る近づいてみた。すると、そこには職場で嫌われている男が雨の中イモ虫のように蠢いていた。そりゃビックリします。

「いや、あのね、帰ろうとしたら車が…」

イモ虫はそこまで言って一瞬止まった。そして続ける。

「帰ろうとしたら車がパンクしてね、それも2つも!で、帰れないから戻ってきたらこのザマでさ。誰か呼んで来てくれない?」

もう「パ」という言葉を口にしていいんだ。僕にとってこのパンティは気持ち悪いものでも何でもない、命を救ってくれた恩パンティだ。この感謝のイメージ、パンティは命すら救ってくれるというイメージを伝えていかねばならない。それが僕の使命なのだ。

駆けつけた屈強な同僚たちによって救出された僕は、命の恩人のパンティに向かって

「まさに天佑神助だよね」

そう述べるのだった。

ちなみに、そのままいったら自分の「pato」という名前すら名乗れないところだった。

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