信頼

信頼

タイトルは忘れたが、ある漫画を見た時だった。自分の主張が誰からも認められない辛さ、誰からも信頼されない苦しさをひどく痛感したものだった。少年犯罪における冤罪、その裁判の様子を描いた漫画だったが、なんとも考えさせられるものだった。

素行の悪い主人公の少年はある殺人事件の容疑者として検挙される。警察は彼を犯人と決めてかかり何とか自白させようとするのだ。周りから誰も信頼されず、自分の言葉を信じてもらえない。少年は諦めの境地に達し、犯行を自供してしまう。

少年犯罪においてはろくな捜査も行われず、裁判自体も形骸化したものである。冤罪を防ぐシステムが構築されていないと言え、さらに少年犯罪では再審制度がない。そんな状況の中で少年を信頼し、無罪を勝ち取るために戦う少年弁護士の姿を描いた作品だ。

こういった社会派路線としての見方をしても面白いし、ストーリー自体が練りこまれていてスリリングに読むことが出来る作品だ。しかし、僕はそれよりも別に「何を言っても信じてもらえないため、全てを諦めてしまい自供をした少年の気持ち」に思いを馳せ、なんとも切なくなったものだった。

信頼を得るのは大変なことだし、一度失った信頼を取り戻す事は難しい。件の漫画でも、常日頃から素行が悪く評判の良くなかった少年に信頼がなかったことが原因の一つになっている。自分に一因があるとはいえ、自分の言葉が誰にも伝わらない苦しみ、それは想像を絶するものかもしれない。

僕が小学校低学年だった頃、水泳の授業後にある事件が起こった。

小学校低学年というとまだ性的区別が曖昧な時期で、水泳の授業前と後の着替えは教室で、それも男女一緒にが当たり前だった。そんな男女共同の着替えにおいて、ある事件が起こった。

まあ、男どもはバカばかりなので、女子と一緒だろうとなんだろうと、未発達で毛も生えてなく、皮でシッカリとディフェンスをしたチンコをブラブラさせて着替えていたのだが、女子は違っていた。

やはり性的に先に発達するのは女子らしく、タオルを改造したテルテル坊主の王様みたいなツールを駆使し、なんびとたりとも見れないようにして完璧に水着に着替えていたものだった。なんというか、お前のなんか誰もみねーよ、というようなブスほど防御力が高かったような気がする。

僕は鼻が悪く、プール開き前の耳鼻科検査でいつも鼻炎と診断され、最初の数回はプールの授業を見学することを余儀なくされていた。小学校低学年の子供にとってプールの授業ってのは最高に楽しい授業なので何とも口惜しく見学していたのを今でも覚えている。

事件のあったその日、プールの見学をしていたのは僕ともう一人、松下君という男の子だけだった。特に取り立てて仲が良かったわけじゃないので、何も言葉を交わすことなく、漠然とクソ熱い炎天下のプールサイドで二人並んで体育座りをしていた。

他の生徒は楽しく涼しげに水と戯れ、僕ら見学者は炎天下の中体育座り。ホント、時代が時代だったら児童虐待になるんじゃないかというレベルで過酷な見学だったと思う。見学の方が辛いってどうなってるんだ。

そんなこんなで、プールの授業は終了し、プールに入っていた全員がタオルで体を拭き教室に戻る。僕ら見学二人組みも熱射病一歩手前でフラフラになりながら教室に戻った。事件はその時起こった。

「美由紀ちゃんのパンツがない!」

クラス中に衝撃が走った。

美由紀ちゃんとは、まあそこそこかわいい感じの比較的お嬢様っぽい雰囲気を漂わせる女の子だった。で、その美由紀ちゃんのパンツが煙のように姿を消していたのだ。水着に着替えるために脱ぎ、机の上に他の服と一緒に置いてあったパンツが消えたのだ。

女の子の下着とか、今ではあればムチャクチャ興奮するんだけど、当時の僕らは何が良いのかわからなかった。でも、誰かが性的な目的で美由紀ちゃんのパンツを盗んだんだろうなってのは漠然と分かってた。

当然そうなると、プールに入ってなくて見学していた僕ら2人に疑いがかかるわけで、しかも、僕はずっとプールサイドにいたのだけど松下君は一度だけ「トイレに行っていいですか?」と先生に告げてプールサイドから姿を消していたのだ。しかも悪いことに、松下君が美由紀ちゃん事を好きっぽいという噂が前々から飛び交っていた。

「おい、松下。お前、パンツ盗んだだろう」

心無い男子がそう松下君に詰め寄る。もちろん松下君は。

「そんな、取ってないよ。取るわけない」

と弁明するのだが、誰も信じなかった。

松下君の家は貧乏だった。まあ、ウチのクラスはごく一部の富める者を除いて大半が貧乏だったわけだが、その中でもAクラスに松下君の家は貧乏だった。いつだって同じ服を着て学校に来ていたし、給食費や修学旅行の積立金もしょっちゅう遅れていた。

そういった松下家の貧乏列伝と同時に、松下が万引きしてるのを見ただとか、同級生の消しゴムを盗んだだとか、彼の手癖の悪さも同時に報じられていた。

「お前変態だよな。返してやれよ、パンツ」

「どうせお前が盗んだんだろう、お前貧乏だもんな」

たぶん美由紀ちゃんに気があった男子達だろう、執拗に松下君に詰め寄ってた。僕はその光景を見て、パンツ盗みが変態なのは確かだけど、貧乏だからパンツ盗むってのはちょっと違うだろうと思った。

「信じてよ、僕じゃないって」

そんな言葉、誰にも届いちゃいなかった。前評判の悪い松下君に対する信頼など、だれだってこれっぽちも持っちゃいなかった。それはある程度仕方ないと思う反面、もし本当に彼がやってないとするならば、言ったどんな気持ちなんだろう、そんな考えが頭をかすめた。

やったことを証明するのは簡単だ。明白なやった証拠や自供があればいいのだ。ただ、やってないことを証明するのは難しい。やってないと言ったって誰も信じてはくれないし、やってない証拠ってのもなかなか難しい。信頼がないヤツとなると尚更だ。

本当にやっていなくて、全ての言葉を誰にも信じてもらえないとするならば、松下君は今一体どんな気持ちなんだろうか。そう考えると少しだけ目頭が熱くなるものを感じた。

たしか、この騒ぎは予想以上に大きなものになり、美由紀ちゃんは泣き出すわ、何の関係もないのに一緒に泣き出すブスがいるわで大騒ぎ。ついには担任まで出てくるのだった。うん、なんか担任が上手くまとめ、「証拠もないのに人を疑うのは良くない」と松下君を疑う男子どもを一喝して丸く収まったように思う。

そしてその日は帰宅。僕は松下君の気持ちばかり考えていた。この辺が当時の僕の幼さと純粋さで何とも可愛らしい。今にして思えば、あの日パンツを盗まれた美由紀ちゃんは間違いなくノーパンで授業を受けたはずだし、ノーパンで帰ったに違いない。そこに着目せず、興奮に変えれないとは、幼いとはいえ情けないものだ。

次の日。

朝から前日担任に怒られた男子達は息をまいていた。

「あのやろう、絶対に盗んでるに違いない。今日こそ白状させてやる」

何をそんなに一生懸命なのか知らないが、彼らは今日こそ決める意気込みだった。「もうやめてくれ、本当に松下君がやってなかったらどうするんだ」、僕はそう思ったが声に出して言うことは出来なかった。

そこに松下君が登校して来た。あいも変わらず昨日と同じ服装のジャージ姿。汚いジャージ姿だった。

「おい、盗んだんだろ。返してやれよ」

朝の挨拶がこれだ。そもそも松下君が盗んでるとしても、一晩中ねぶったであろうパンツを返却されても美由紀ちゃんも困るだろうに。それよりなにより、本当に松下君が盗んでいなかったらどうするつもりなんだろうか。

「返してやれよ、この泥棒!」

信頼というのは大切なものだ、そう思った。信頼がないだけでこういう時に大変な目にあう。誰にも意見を聞いてもらえず一方的に決め付けられてしまう。本当に大切だと思った。でも、松下君はそんなに悪いことをしたのだろうか。

もういいよ、やめてやれよ。証拠もないのに疑うのは良くない。そもそも、もっと松下君を信頼してあげてもいいんじゃないか。確かに評判は悪かったりするだろうけど、僕には涙目で「やってない」って訴える彼が嘘を言ってるようには思えなかった。

我慢しきれなくなり、いよいよ彼をかばおうと一歩だけ身を乗り出したその時だった。想像を絶する、遥かにインパクト極大の事実が僕の目の前に飛び込んできたのだ。

「おい、松下君。そのポケットからはみでてるのはなんだい?」

見ると、彼のジャージのポケットからは、白い柔らかそうな布がチョコンと恥ずかしそうに顔を覗かせていた。

そう、それは間違いなく女児用のパンツで、前日に煙の如く姿を消した美由紀ちゃんのパンツだった。

ありえねー。

コイツやっぱ盗んでやがった!という事実もさることながら、なんで前日に盗んだ戦利品を次の日もポッケにしまってるのか。いくら前日と同じジャージとはいえそのまま所持は余りにもお粗末。お粗末過ぎて泣けてくる。彼をかばおうとした僕はなんだったんだ。

もちろん、その場で男子にボコボコにされ、先生に引き渡された松下君は、「パンツ泥棒」という至極直球なニックネームを賜り、小学校から中学校卒業までの数年を信頼が低いというよりは0の状態で過ごす暗黒の青春時代を送ることになったのだった。

信頼というのは大切だ。この事件で信頼を地に落とした松下君は、その後もことあるごとに疑われ、クラスで飼っていた亀が逃げ出しただけで疑われていた。でも、それは仕方のないこと。

信頼は自分の手で勝ち取り守っていくものだ。信頼がなく理不尽に疑われることもあるかもしれないが、それはそれまでに信頼がない行動を繰り返した自分が悪いのだ。幼心にそう痛感した事件だった。

そうそう、冒頭で述べた漫画だが、タイトルを思い出した。確か「勝利の朝」というひどく建設的なタイトルの漫画だ。事件の次の日の朝にパンツ盗みが発覚し、信頼を地に落とすという「敗北の朝」を演じた松下君とは正反対のタイトルだ。

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