優しさのバランス

優しさのバランス

母親と父親の役割ってのはそういうものだと思う。

僕が子供の頃、何か悪いことをすると親父は憤怒した。長男ということもあり、何かと厳しく育てられた僕、事あるごとに怒られていたような気がする。そんなに怒って疲れないのか、そんなに怒って何が楽しいのか、そう思わざるを得ないほど親父はいつも怒っていた。

僕の悪戯が原因だったり、テストの点が悪かったのが原因だったり、親父のポケットから500円を盗んだのが原因だったり、客人にタメ口を叩いたのが原因だったり。とにかく毎日怒られていたような気がする。

普段はアッパーパーな親父で、パンツ姿(ブリーフ)で踊り狂ったりしていたが、ひとたび怒りの導火線に火が付くとそりゃもう凄かった。気性が荒く、とにかく大暴れ。もともと力仕事を生業としているので腕力も物凄い。スコットノートンみたいな腕してるかもんだから、それはそれは凄いパワフルに殴られたものだった。

顔の形が変わるまで殴った後、親父は僕の首根っこを掴んでひょいと持ち上げると、まるで不法投棄でもするかのように家の外に投げ捨てた。で、まるで盗賊の襲撃に備える人の如く、家中の窓や戸の鍵を物凄い勢いで閉めていった。玄関や裏口の電灯を消し、どうあっても家の中には入れないぞ、外で反省しろ、という姿勢丸出しだった。

裸足で投げ出された僕は夜の闇に怯え、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら玄関の戸を叩くくらいしかできなかった。

1時間もすれば、泣き疲れ、叫び疲れて座ってしまう。ちょうど玄関に置いてあった亀を飼う用の大きな水槽にもたれかかり、体育座りでヒックヒックと言っていると、ソロリと玄関の戸が開いたものだった。

そこには母の顔があり、心配そうな顔をして声を押し殺しながら

「はやく入りなさい、お父さんはもう寝たから。もうあんなことするんじゃないよ」

と言ったものだった。泣き声を押し殺しながら家の中に入った僕は、食べられなかった夕食を母に暖めてもらい、いつもいつも白米を押し込みながらまた泣き、そのうち泣き疲れて寝てしまうのだった。

これこそが母親の役割と父親の役割を端的に示した好例でないかと思う。父も母も根底にあるのは子を思う「優しさ」。どちらも優しさを表現しているものの、その役割が違うのだ。

厳しく接し、本人のことを考えて怒る。時には罰を与え、本当に悪いことをしたのだと子供に分からさる。これはもちろん優しさだ。人を怒るってのは難しいことだし、ましてや自分の子供を叱って殴るなんてのは通常の親なら苦しいことだ。それをあえてする。子供のために自分が憎まれ役になってもあえてする。それこそが父的優しさと言えるのではないだろうか。

また、母親のように全面的に優しさを打ち出すことも必要だ。母がフォローし、外で泣いている子供を家の中に入れる、これがなければ事態は洒落にならないことになる。子供をずっと外に出してりゃ凍死するかもしれないし、勝手にどっか行って車に轢かれるかもしれない。どこかで許してやって家の中に入れねばいけないのだが、怒り狂った父はそうするわけにもいかない。そこで母親のフォローの登場だ。怒った父も母のフォローは承知の上で家の外に放り出している。そんな暗黙の了解的な雰囲気があった。

この父親的優しさと母親的優しさ、双方が良好にバランスを形成し、1人の人間を育て上げる。父のことは怖いけど、親を憎めない。母は優しいけど、親を舐め腐ることもできない。二つの優しさがそんな心情に導いてくれる。きっと子育てにおいて大切な役割を果たす、それが二つの優しさなのだと思う。

そして、この二つの優しさシステムが最近では大きくバランスを失っているように感じる。母的優しさのみで育てられた子供がクソガキ化し、電車の中で地べたに座って大暴れする、モラルもクソもない時代なのだ。

また、何も子育てだけではなく、社会システムを円滑にすすめる上で優しさのバランスは重要なウェートを占めるのではないかと思う。

例えば、交通違反の取締り。僕は免停になるほど幾度となくパトカーに検挙されているが、あれだって二つの優しさのバランスだ。

パトカーには二人の警察官が乗っている。違反をするとパトカーに乗せられ、そこで怒られたり反則切符を切られたりするのだが、だいたいいつも2つのタイプの警察官が対になってパトカーに乗り、検挙にあたっていることに気が付く。

1人は血気盛ん、若干若手風の真面目警察官。違反を許せず、冷血に反則切符を切る。で、ちょろちょろと説教を述べ、違反がどれだけ危険なことかを少しばかり厳しく教えてくれる。言うなれば父的優しさを持った警察官だ。

で、大体もう一方の警察官は、やや年配、それでいて穏やかな表情をしている。なんとなく話が分かりそうな警察官。若手警察官に一通り怒られた後、フォローをするかのように優しく「気をつけなさいよ」と言ってくれる。時には若手を無視して違反を見逃してくれることもある。間違いなく母的優しさだ。

幾度となく交通違反で検挙されたけど、パトカーに乗ってる警察官は、まるで狙ってるかのように父的役割と母的役割をもった二人がバランスよく配置されている。きっと、怒られすぎて恨みを持つことがないように、それでいて舐め腐ることがないように配慮されているのではないだろうか。

飴と鞭、なんて言葉があるように、社会における多くの場面では父的優しさと母的優しさがバランスよく混和した状態が見受けられる。極度に厳しくされれば凹むし、極度に甘やかされれば舐め腐る、そういったことがないように自然と配慮されているのではないだろうか。

昨今の日本をざっと見渡すと、どうやらやけに父親が蔓延した社会のような気がする。痛みを伴う構造改革の名の元、厳しさだけを強いられ、アメリカ式の成果主義が僕らを苦しめる。誰かは誰かを騙そうと狙っているし、知らないことが悪だと言う風潮が蔓延する。ここで「優しさ」という単語は適切じゃないかもしれないけど、言うなれば父的優しさが社会を覆っている殺伐とした状態に感じる。

父的優しさも大切なのだけど、それだけじゃ辛すぎる。もっと母的優しさも必要なのじゃないだろうか。これは甘えなんかじゃない、バランスの問題なのだ。家の外に投げ出されたまま、いつまでもいつまでも家の中に入れてもらえないんじゃ辛すぎるのだから。

涙を流さず、闇に怯えて玄関先で泣いている僕たちに、声を押し殺して家にそっと招き入れてくれる母親が、もう少しいてくれてもいいのではないか。どんどんと父親化していく社会を見つめ、そう思えてしまって仕方がないのだ。


上の文章は、サイトとは全然関係なく、私生活な部分で依頼されて書いた文章の草稿です。すげえ真面目な機関紙に載る用の文章らしく、僕としても自分なりに真面目に書いたつもりなのですが、なんというか、物の見事にボツにされました。なんたる厳しさ。

マンコとかチンコとか下品なこと書いてないのにボツにされ、まるで片翼を失ったエンジェルのように傷ついてしまった僕なのですが、一体何が悪かったのか、皆さんにも考えて欲しいな、などと思う次第なわけなのです。

ということで、皆さん、一体上の文章の何が悪かったのか、ダメ出ししてやってください。ただし、父的厳しさで「あれもダメ」「これもダメ」「全部ダメ」などと言われると、僕もナイーブでセンシティブな心の持ち主ですので、非常に凹みます。ですから、母的優しさでフォローしつつ、ダメ出ししてやってください。お願いします。何事も優しさのバランスが大切なのですから。

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